鷹山は、寛延4年(1751年)に日向高鍋藩主、秋月種美の次男として生まれました。
宝暦10年(1760年)、10歳で米沢藩8代藩主重定の娘幸姫の婿養子となりました。14歳の頃から細井平洲に師事し、君主としての知識を磨き、その後の藩政改革に役立てています。
鷹山は17歳で家督を相続しますが、当時の米沢藩は莫大な借財をかかえて身動きが取れない状態でした。この困窮した藩を立て直すには相当な決意が必要だったわけですが、藩主になった鷹山は、決意を表す誓詞を春日神社、白子神社に奉納しています。
春日神社に奉納した誓詞には、
- 民の父母の心構えを第一とすること
- 学問・武術を怠らないこと
- 質素・倹約を忘れぬこと
- 賞罰は正しく行うこと
とあり、また白子神社に奉納した誓詞には、大倹約を行って米沢藩を復興することを誓っています。
大倹約令の実施
明和4年(1767年)、鷹山はこの誓詞に誓った通り、12か条からなる大倹約令を発令しました。
重役の一部からは、米沢藩の対面に関わると強い反対を受けましたが、鷹山は率先して節約を実行しました。
江戸藩邸での藩主の生活費をおよそ7分の2とし、日常の食事は一汁一菜、普段着は木綿、奥女中も50人から9人に減らしました。
農業開発と籍田の礼
大倹約令と並行して実施されたのが農業開発です。鷹山は安永元年(1772年)、中国の例にならい、遠山村で藩主が自ら田を耕す「籍田の礼」を執り行い、農業の尊さを身をもって示しました。
以後、刀を鍬に持ち替え家臣あげて荒地開発や堤防修築などが次々に実施されました。
殖産興業
もともと米沢藩の特産品であった青苧を使い、武士の婦子女に内職として機織りを習得させました。その後、桑の栽培と養蚕を奨励し、絹織物に移行。
出羽の米沢織として全国的に知られるようになりました。米沢織は現在も米沢の主要産業になっています。
その他にも製塩、製紙、製陶などの産業も興しました。
藩校「興譲館」の創設
鷹山は「学問は国を治めるための根元」であるとの強い考えを持っていました。このため安永5年(1776年)、城下の元篭町に藩校「興譲館」を創設しました。創設にあたっては、鷹山の師である細井平洲の意見を求めました。
平洲は、学問は単なる考証や漢文を読めることではなくて、現実の政治や経済に役立つ「実学」でなければならないと教え、鷹山に「建学大意」という指導書を贈りました。
学生は有能な家臣の子弟から20名選んで無料で入館させました。
この興譲館からは、現在に至るまで多くの偉人が輩出されています。
天明の飢餓
天明3年から続いた凶作は、当然米沢藩にも影響を与えました。天明4年の米価は1俵が平年の2倍から5倍にも跳ね上がり、このため鷹山は新潟や酒田から米1万俵を買い上げ領民に分け与えました。
この政策により米沢藩は天明の大飢餓においても、1人の餓死者を出さずにすんだものの藩財政は大きな打撃を受けてしまします。
飢餓救済の手引書「かてもの」の発行
この経験をもとに藩政の重臣にいた莅戸善政は、日頃から代用食となる動植物の調査、研究が必要と藩の侍医矢尾板栄雪らに、食用となる動植物の研究を命じました。そして、自ら飢餓救済の手引書を執筆。その内容は、「いろは」順に、草木果実約80種類の特徴と調理法について、また、食料の保存法や味噌の製造法、魚や肉の調理法について詳しく書かれています。
執筆から2年後の享和2年、鷹山の意をくんで「かてもの」(かて物・主食である穀物とともに炊き合わせ、食糧不足に陥った際に節約するための代用食となる食物)と命名され1575冊を刊行。
藩内を中心に配布されました。
35歳で引退
天明5年(1785年)、鷹山は35歳という若さで家督を上杉冶広に譲り隠居します。
その際に君主としての心得を記した「伝国の辞」を冶広に残しています。
「伝国の辞」
一、国家は先祖より子孫へ伝え候国家にして我私すべき物にはこれなく候
一、人民は国家に属したる人民にして我私すべき物にはこれなく候
一、国家人民のために立たる君にし君のために立たる国家人民にはこれなく候
引退後も、鷹山は冶広の強い要請によって、相談役として藩政に参与しました。
引退後の大事業は「寛政の改革」でした。上書箱を設けて、藩財政再建のための意見を家臣のみならず、広く領民からも求めました。その意見を集約して藩費を半減し、残る半分を借金返済に向け、16年で完済するという思い切った計画をたてました。これは「寛三の改革」と呼ばれています。
また、寛政6年(1794年)には、米沢の北部に総延長32kmにおよぶ農業用水「黒井堰」工事に着手。翌年に完成させ、同11年(1799年)には、飯豊山に導水トンネルを掘って、玉川の水を水量の少ない置賜の白川に引水するという大工事に取り組みました。20年後の文政元年(1818年)に竣工し、置賜の田畑は潤いました。
鷹山の改革の成果が徐々に表われ、藩財政は少しずつ好転していましたが、まだ借金は多く残っており、鷹山は相変わらず一汁一菜、綿服着用の生活を続けていました。
文政5年(1822年)3月12日、体調をくずしていた鷹山は、72歳でこの世を去りました。
平成19年(2007年)、読売新聞が日本の自治体首長に行った「理想のリーダー」アンケートで、上杉鷹山が1位に挙げられています。
「なせば成る なさねば成らぬ何事も 成らぬは人のなさぬ成りけり」
は鷹山が残した有名な言葉です。