弘治元年(1555年)に越後国の長尾政景の次男として生まれ、上杉謙信の甥に当たります。
政景の死後、仏門に入り子どもが居なかった謙信の後継ぎとして養子に迎え入れられました。この際、直江兼続も景勝に小姓として従い春日山城に入っています。
御館の乱
天正4年(1576年)、謙信は北条氏康の七男、三郎を養子に迎え、名を景虎としました。その後、謙信が急死すると、景勝と景虎の間で家督争いが始まりました。俗にいう「御館の乱」です。
景虎は北条家へと援軍を求め、北条家は武田勝頼と同盟を組み越後を攻めようとしました。これに対して景勝は領土と黄金の譲渡を条件に武田家との和睦を結び景虎を攻めました。
景虎は敗れて自害し、乱は治まります。
この時、景勝は武田勝頼の妹である菊姫を正室に招き入れ、継嗣の乱を契機に武田家との関わりをより強くしていきました。
五大老就任
御館の乱の後、新発田家の謀叛や織田軍の越中への侵攻、武田家の滅亡などで越後国の国力が低下すると、景勝は本能寺の変での信長の死後、国内統一を急ぐ豊臣秀吉と交流を持ちます。
天正11年(1583年)の、信長亡き後の織田勢力を2分する賤ヶ岳の戦いや、天正12年(1584年)に起きた小牧・長久手の戦い、天正13年(1585年)の富山の役などで共に戦う事で、景勝と秀吉との関係は密なものとなっていきました。
天正15年(1587年)、秀吉の後ろ盾を得た景勝は、長年にわたり抗争状態にあった新発田家を討つと再度越後の統一を果たしました。その後も、景勝は秀吉の朝鮮出兵が始まると、5000人を率いて朝鮮に渡るなど様々な功績を討ち立て、文禄4年(1595年)、秀吉への忠誠心を評価され豊臣家五大老の座に付きました。
慶長3年(1598年)、秀吉の命により会津120万石を治める藩主となりました。
会津討伐から、関が原の戦い
景勝が会津藩主になった同年の慶長3年(1598年)、豊臣秀吉が死亡すると五大老の一人である徳川家康が次の天下人の座を狙い、徐々に政権を独占し始めます。家康は豊臣派の大名の振るい落としを図り、家康と不仲であった石田光成との繋がりが深い景勝と対立する形になりました。
慶長5年(1600年)、景勝が会津領内で城の補修や新しい城の建設に乗り出すと、家康は「謀反の疑いあり」と、上洛してその理由を説明するよう命令を出しますが景勝はこれを拒否します。この際、直江兼続が家康に宛てた「直江状と」呼ばれる手紙に、家康は激怒したと言われています。
ついに家康は上杉家討伐の軍を起こして会津をめざしました。また、景勝もこれを迎え撃つために石田光成を初めとする諸大名と通じ、策を凝らして家康の軍勢を待ちました。
しかし、家康は、石田三成が反家康派の大名と旗揚げした事を知り、直ちに進軍を中止して三成らとの戦いのため退却していきました。
『名将言行録』によるとこの時、引いて行く家康軍への追撃を主張する武将に対して景勝は、
「今回の事は家康が仕掛けて来た事であり、家康が引いた以上はこちらも引き返すのが道理である。それを破れば先代の教えを否定する事になる」
と主張し、追撃を許さなかったと言われています。
これは、義に厚い上杉家の気質が景勝にも見える出来事として今も語り継がれています。
その後、天下分け目の戦いと言われる「関ヶ原の戦い」がおこり、石田光成と通じていた景勝は、出羽の平定を成した後に家康とぶつかる事を考え、最上義光領の攻略を目的とする「長谷堂城の戦い」を繰り広げることになりました。
しかし、光成率いる西軍が家康率いる東軍に大敗を喫したことから、長谷堂城の戦いは終結を向かえ、景勝は家康に降伏することを余儀なくされました。
米沢移封
敗戦後、景勝は謝罪のために上洛します。何とか上杉家の存続は認められたものの、慶長5年(1601年)、会津120万石から米沢30万石へと減移封されました。
その際、一人もリストラすることなく、希望する家臣全員を連れてきたといわれています。
米沢城へと移り住んだ景勝は、重臣直江兼続とともに、早急なまちづくりと減封によって苦しくなった藩の財政難を建て直しにかかりました。
慶長19年、大阪冬の陣が起こると、二条城で家康との会見を果たし、先発した直江兼続と共に鴫野へと出陣し、豊臣軍を撃退しました。上杉軍の戦い振りは、家康より感状を貰うほど見事なものであったといわれています。
慶長20年の大阪夏の陣では京都警備を担当し、八幡山に布陣しました。同年5月、大阪城は落城し名実ともに徳川政権が誕生しました。
こうして武将としても藩主としても功績を残した景勝は、元和9年(1623年)3月20日に米沢城にて息を引き取りました。享年69歳。
寡黙でなかなか笑わなかったといわれていますが、文武両道に優れた武将として、徳川家康も一目置いていたといわれています。
また、刀剣を愛し、刀剣の鑑識眼もありました。上杉神社に宝物として伝わる名刀、遺品は名将景勝の面影を今に伝えています。