甘糟右衛門は米沢に居たキリシタンの中心人物とされています。
甘糟右衛門は、上杉景勝とその子である定勝の御側用人として働く、三百石の上級武士でした。
右衛門は藩主と共に江戸に滞在している際、スペインの宣教師ルイス・ソテロ神父と出会い、キリスト教へ入信します。
しかし、1612年に徳川家康の側近である岡本大八が詐欺行為を働いた「岡本大八事件」が起こると、関係者がキリシタンであったことから、幕府は諸大名にキリスト教の取締りを通達しました。これに対し、当時の米沢藩主であった上杉景勝は「当領内には一人のキリシタンも御座無く候」と答え、目立った迫害を行なうことはありませんでした。
1624年、上杉景勝の死後、幕府は藩主が上杉定勝へと変わった事を機に圧力を加えます。これにより定勝はキリシタンを取り締まらざるを得なくなり、1629年1月12日に甘糟右衛門をはじめとする53人のキリシタンが、処刑されました。
この刑場は、昭和に入り、殉教者を称えるためにドイツからキリスト、聖母マリア、洗礼者ヨハネの像が贈られ、処刑場は後に殉教地として整えられました。