幼少期
直江兼続は永禄3年(1560年)、上田の庄(現在の新潟県南魚沼郡六日町)で、坂戸城主長尾政景の家臣樋口惣右衛門兼豊の長男として生まれました。
幼名を与六といい、小さいときから非常に聡明だったといわれています。
この聡明さが上杉謙信の実姉であり、景勝の母(長尾政景の妻)である仙桃院の目にとまり、景勝の小姓としてつかえることになりました。兼続6歳、景勝11歳のときです。
二人は坂戸城近くの雲洞庵で勉学に励みました。主従の関係とはいえまだ幼い二人は、ともに学び、ともに遊び、生涯にわたる絆を築き上げました。
そして、上杉謙信の養子となった景勝に従って、兼続も一緒に春日山城に入り、謙信のもと、戦場での心構えなどさまざまなことを学びました。
青年期
上杉景勝の家督相続
天正6年(1578年)、上杉謙信が突然亡くなります。その跡目を争って景勝ともう一人の養子景虎の間で戦が起こりました。
俗にいう「御館の乱」です。この戦で若干19歳の兼続がその才気を発揮し見事勝利。景勝が上杉家の家督を相続しました。
直江家相続
景勝の側近直江信綱が不慮の事故でなくなると、兼続は景勝の命で、信綱の妻お船の婿養子となり、跡取りのいない直江家を継ぎました。
お船の方は兼続より3歳年上でしたが、聡明な女性で常に兼続を陰で支えました。夫婦仲もよく一男二女を儲けました。
お船の方は後に景勝の嫡子定勝の養育を任されています。
豊臣政権時代
豊臣政権時代、景勝は秀吉との信頼関係を築き、また小田原征伐、佐渡征伐、朝鮮出兵などの功績により五大老にまで上りつめました。この陰には兼続の軍師としての活躍がみてとれます。
その証拠に、景勝が越後92万石より会津120万石に加増移封されると、兼続には出羽米沢30万石の所領を、秀吉じきじきに与えられています。
壮年期
徳川家康の台頭
慶長3年(1598年)秀吉が死去すると、次の天下人として徳川家康が台頭するようになります。
秀吉の家臣石田三成と懇意にあった兼続は、家康との対立を決意。会津にいる景勝に、謀反の疑いありとして、じかに釈明せよという家康に対し、兼続は暗に家康こそ謀反を考えているのではないかという書状を送り、怒った家康は会津征伐を決意します。この書状は「直江状」として今も伝えられています。
慶長5年(1600年)、ついに家康は会津征伐のために動き始めました。
しかし、同年7月、石田三成が家康打倒の兵をあげ、あわてた家康は急遽兵を西に向かわせました。
このとき兼続は家康軍を追撃し、家康を倒すことを景勝に進言しますが、景勝は「謙信公の義の教えをもってすれば、上杉家に退却する敵を追い討ちする戦法はない」と許しませんでした。
このとき、兼続の心は確実に天下を狙っていたはずです。
しかし、この景勝の決断が上杉家を救うことになります。
関が原の戦い
慶長5年(1600年)9月、石田三成率いる西軍と、徳川家康率いる東軍が激突した関が原の戦いは東軍が勝利し、天下人家康の時代が訪れます。
上杉軍は関が原の戦いの間、東軍に加担した伊達軍や最上軍と戦い、兼続も軍師としてその才気を発揮しますが、西軍敗北によって窮地に立たされました。
家康政権へ
関が原の戦いの敗戦後、家康に徹底抗戦すべきとする家臣をなだめ、兼続は上杉家存続のために和議の交渉にはいります。
家康の側近本田正信を交渉相手とし、見事な戦略で上杉家存続を許されました。
兼続の戦略と同時に、会津征伐の際、景勝が家康軍を追撃しなかったことに対する感謝の表われであるともいわれています。
慶長6年(1601年)、景勝は兼続とともに上洛して家康に謝罪します。
許されたとはいえ、会津120万石から出羽米沢30万石へ減移封となりました。
米沢期
慶長6年9月、景勝は米沢に移りました。と同時に、家臣やその家族など合わせて数万人が一緒に移り住んだといわれています。小さな城下町は突然人であふれ、住まいの確保は至難の業でした。
兼続は早急にまちづくりにかかります。本丸、二の丸の整備、三の丸の新設、侍町、町人町の整備、それに伴う生活用水路の整備など、短時間のうちにまちの骨格を作り上げました。
治水事業
兼続は特に治水事業に力をいれました。米沢の東を流れる松川はたびたび氾濫を起こし、川沿いの村は水害に苦しんでいました。そこで、約10kmわたって谷地川原堤防を築き、田畑や村民を守りました。
今でも「直江堤公園」として一部が保存されています。
また、掘立川や木場川、御入水川を開削。猿尾堰、帯刀堰を築き、農地の灌漑用水や城下の生活用水の確保に努めました。現在も流雪溝などに形を変えてはいますが、この2つの堰から取り入れられた水は、米沢の市民生活に欠かせない大切なものとなっています。
殖産興業
兼続は、米沢藩の収入を増やすため殖産興業にも力を入れました。青苧(あおそ)、紅花、漆などの換金作物の栽培、鯉の養殖、ソバやウコギの栽培などを奨励しました。
これらのものは、その後中興の祖上杉鷹山に受け継がれ、今では米沢の名産品になっています。
そして、農民の生活にも目を向け、月毎に農民がどのような心構えで働いたらよいかを記した「地下人上下共身持之書(四季農戒書)」を表し、日常生活の隅々まで気を使った指導をしました。
戦に備えて
兼続は町づくりとともに、万が一に備え、人里離れた吾妻山中で鉄砲製造に着手します。造られた鉄砲は1,000挺あまりにのぼるといわれています。
この鉄砲は「大阪冬の陣」で大活躍しました。
また、各寺々に奨励した「万年塔」と呼ばれる墓石は、戦の際に積み上げれば防護壁になるようにとの考えから造られました。
米沢のお寺には、今でも数多くの「万年塔」が残されています。
文武兼備
景勝のもとで戦略家として活躍した兼続は、文化人としての才能も発揮しています。米沢市に隣接する高畠町にある亀岡文殊堂には、兼続が作った和歌や漢詩が残されています。
また国内をはじめ、中国や韓国の貴重な本の収集家としても有名でした。世界で唯一現存する宋判の「史記」「漢書」「後漢書」(国宝・国立歴史民族博物館蔵)や、唐時代の医学書「備急千金要方」(重要文化財・国立歴史民族博物館蔵)も兼続のコレクションです。
このほかにも市立米沢図書館が所蔵する、室町時代に平仮名交じりで書かれた写本「古點平家物語」や、兼続自ら書写した「古文真宝後集抄」、朝鮮出兵の際に持ち帰ったといわれている「山谷詩集」などの数種の朝鮮古活字本が残っています。
学問の奨励
兼続は臨済宗の寺院「禅林寺」(現法泉寺)を創建し、米沢藩士の子弟を教育する学問所としました。そこは「禅林文庫」と呼ばれ、兼続が集めた書籍が納められました。
この学問奨励の精神は、後に上杉鷹山公が創設した藩校興譲館へと受け継がれました。
豊臣政権から徳川政権へ その狭間の中で
関が原の合戦後、徳川家に忠誠を誓った上杉家でしたが、さらに結びつきを強固にするために、兼続は家康の懐刀といわれた本多正信の息子、本多政重を長女お松の養子に迎えました。
家康が征夷大将軍となり、世の中は安泰に納まっているようにみえましたが、ついに豊臣家の滅亡のときが近づいていました。
兼続は内政に奮闘するかたわら、慶長19年、上杉軍を引き連れて「大阪冬の陣」に参戦します。ここでも、おおいに武功を挙げ、徳川家の勝利に尽力しました。
「大阪冬の陣」終結の翌年、元和2年(1616年)家康は73歳で死去。天下は徳川幕府のもと、本当に安泰な時代を迎えました。
その3年後、元和5年(1619年)12月19日、体調を崩していた兼続は、江戸桜田の鱗屋敷で生涯を閉じました。
享年60歳。